『2020年』

宮本一馬(鈴木剛介) 著

2020/07/09---2020/07/23

おれは,若ハゲで小太りで、身長があまり高くない。だから、モテないし、彼女がいたこともない。小さい頃から運動が苦手で、いじめられたことはないが、よくバカにされた。いつか、そいつらを見返してやる、と心に誓っていたが、見返すための手段はあった。なぜなら、おれは頭が抜群に良かったからだ。当然、東大に進学した。なぜ、東大に行くのか?決まっている。金持ちになるためだ。おれは、東大理学部で生物科学を専攻し、1980年代にクリストファー・ラングトンが創出した人工生命について、バイオニクスの側面から徹底的に研究した。一切、遊ぶことなく、24時間を研究にあて、ついに、23歳の時に、自分が求めていた理論構築に辿り着いた。そして、銀行家として生き、57歳で病死した父親から相続した遺産の内、500万円を使って、世界最速のスーパーコンピュータ「富士⦅ふじ⦆」の民間一般貸与枠を年単位の契約で借りた。小学生の時から、プログラムを組んで遊んでいた。プログラミングのスキル自体は既に持っていた。必要だったのは、自分の目的を果たすための理論構築だった。
「シュレック」
おれは「富士」の中に組み立てたシステムを、そう呼んだ。
すごーく分かりやすく「シュレック」の仕組みを話そう。一京匹のパックマンが「富士」の中に存在していると考えて欲しい。パックマンは、ネット上のあらゆる情報を「食べる」。そして、その食べた情報を消化吸収して「脱糞」する。その「脱糞」した情報が、おれが求めていたもの、すなわち、24時間後の株価数値。つまり「シュレック」を使えば「未来の株価」が正確に予測出来る。的中率は99・5%。「シュレック」がはじき出した数値が外れることはないと言っても過言ではない。そのようにして、おれは、27歳で年収20億円の男になった。
おれには「モテない」という強烈なコンプレックスがある。いくら金持ちになっても、街中に出会いはない。見た目だけで、女に避けられる。当然、行くのは銀座だ。そのために、金持ちになったようなものなのだ。並レベルの銀座ではない。おれが通い始めたのは、座っただけで10万円取る7丁目の「クラブ・シャネル」だった。
「武富士⦅たけふじ⦆さんて、オーラありますよね」
と、よく言われる。物は言いようだな、と思う。見た目で褒めようがないからの、お世辞。でも、そう言うと、「確かにそうなんだけど、自信がみなぎっている男性って、フェロモン出てるから」
と言われる。それも、事実だろうと思う。悪い気はしない。
「クラブ・シャネル」に、中の上の女はいない。上の中の女もいない。上の上の女しかいない。そういう女たちにチヤホヤされることが、楽しくてたまらなかった。
ただ「クラブ・シャネル」には「難攻不落」と呼ばれる女がいた。朱美⦅あけみ⦆だ。酒の席で仲良くなった会社重役のジジイたちの中にも、朱美と店の外で会ったことのある人間はいなかった。
朱美の素性も誰も知らない。ただ、朱美は極上に美しい、その事実だけがあった。
隣り合って座っていても、朱美は指一本触れさせない。こちらも嫌われたくないから、触れることは出来ない。
「武富士さん、若いのに加齢臭⦅かれいしゅう⦆がする」
と朱美に言われたので、朝と夜に二回、シャワーを浴びるようになり、百貨店で最高級の男性用香水も買った。
「武富士さんの若ハゲは見苦しいから、いっそ、スキンヘッドにした方がいい」
と朱美に言われたので、最高級の育毛剤を使うようになった。
「二人で食事に行かないか」
と誘っても「行かない」と即答される。
おれの30歳の誕生日を盛大に祝う席で、思い切って朱美に言った。
「行かないと答えることは分かっているのだけど、モナコの朝日を見に行かない?」
「モナコか」
朱美は大きな瞳を、一瞬、おれの視線から外した。
「行く?」と、おれは訊いた。
「もちろん、行かない」と、朱美は答えた。
「武富士さん、私服のセンス、どうにかした方がいい」
「じゃあ、一緒に服を選んでくれる?」
「選ばない」
やはり、即答だった。
「それより、いつか訊こうと思っていたんだけど、武富士さんて、どうしてそんなにお金持って
いるの?」
「絶対に空⦅から⦆にならない貯金箱を持っているから」
「その貯金箱は、絶対に空にならないの?」
「絶対に空にならない」
「じゃあ、わたしと結婚する?」と朱美が訊いた。
「する」と、おれは即答した。
「朱美」というのは、てっきり源氏名だとばかり思っていたのだが、朱美は本名も「朱美」だった。瀬戸内朱美。それが彼女の本名だった。戸籍も見せてもらった。両親はおらず、沖縄県・宮古島の施設で育った。大学進学と同時に上京、同時に夜の街で働き始める。現在の年齢は、26歳。店で結婚の話をした翌日には、店を辞めて、おれの部屋に引っ越して来た。
結婚式もパーティーもしない。新婚旅行にも行かない。指輪もいらない。何もいらない。と言うので、拍子抜けしてしまった。すさまじく壮大な結婚式を所望されるものだとばかり思っていたから。でも、彼女は友だちもいないと言う。おれも、勉強と研究に没頭し、「シュレック」を構築して以降は、銀座で遊んでいただけなので、友だちはいなかった。お互い、呼ぶべき人も、祝って欲しい人もいない。母親は、父親が亡くなった翌年に実家を売り払って再婚し、それ以来、限りなく疎遠だ。
おれの部屋に越して来た夜、夕食を食べた後、朱美にシャワーを貸した。スウェットに着替えて出て来た朱美は、バスタオルで頭を拭きながら「びっくりしたでしょ」と言った。
確かに、びっくりした。別人だと真剣に思った。そこにいたのは、極上でゴージャスな美女ではなく、小顔で小柄な普通の女性だった。
「夜の世界なんて、勝負はメイクだから。わたしの顔って特徴がないでしょ。だから、逆に化けやすいんだよね」
武装を解いた朱美は、店では見たことのない、力みの抜けた顔で、あっけなく笑った。そんな顔は見たことがなかった。
「失望した?」
そう訊かれて、どう答えれば良いのか混乱した。自分自身が、今のこの状況を、どう理解しているのかが理解出来ない。でも、落ち着いて来たら、自分の心の中がはっきり見えた。おれは、思ったことを率直に話した。
「びっくりしたけど、失望はしていない。むしろ、もっと好きになった」
「本当に?」
「本当に」
「タケちゃんとは、付き合い長いからね。タケちゃんなら、そう言ってくれるような気がしてい
たんだ。じゃあ、いいこと、教えてあげようか?」
「うん」
「この顔を知っているのは、タケちゃんだけだよ」
「嬉しい」
「本当に、わたしと結婚出来る?」
「うん」
「わたしが、なぜ、タケちゃんと結婚しようと思ったか、分かる?」
「金持ちだからだろう?」
「あのお店には、お金持ちしか来ないよ」朱美は、素朴な顔で笑う。「タケちゃんより、もっとお金持ちな仲良しだっていたよ。でも、わたしがしたいことをさせてくれるのは、タケちゃんだけだと思ったの」
「朱美がしたいことって、何だ?」
「わたしね、何もいらないの。物欲も金銭欲も何もない。ただね、家に閉じこもって、ずーっと、ゲームがしていたいだけ。それが許される環境を手に入れたかった。怒る?」
「怒らない。朱美は、何もせずに、家に閉じこもって、ずーっとゲームをしていればいい。他のことは、すべておれがやる。朱美は何もしなくていい」
「ありがとう。でも、どうして?わたし、別に美人じゃないのに」
「よく分からない。自分でも不思議だ。でも、美人じゃない朱美を見て、初めて、この女が、おれの運命の相手だと確信したんだ。一生を費やして、朱美を守るよ」
「わたし、本当に、何もしないよ」
「構わない」
おれは迷わず、即答した。それから、生まれて初めてのキスを体験し、ようやく童貞を卒業した。翌日、二人揃って、区役所に行き、婚姻届けを提出した。
朱美は本当に何もしなかった。でも、それで良かった。人間なんて、金さえあれば、動く必要すらない。食事は、一日三食、青山のレストランからデリバリーしてもらった。週に一回、ハウスキーパーが入る。おれの口座は、最上級の弁護士と最上級の税理士と「シュレック」を委託している最上級のトレーダーによって、がっちり守られている。カードが一枚、あれば、指一本動かす必要もない。
部屋は39階にあり、南東角部屋200平米ワンルームなので、太陽の光がよく入る。でも、画面が見えにくくなると言うので、朱美が越して来てからは、カーテンを閉め切りにするようになった。それもそれで構わない。朱美が、そばにいてくれさえすればいい。朱美は、ソファに座り、起きてから寝るまで、ゲームに没頭していた。おれは、ゲームに興味がないし、邪魔になると思ったので、ゲームの世界には関わらないようにしていた。ただ、朱美に許可をもらって、朱美がゲームをやっている間は、膝枕をしてもらった。朱美は、おれの顔の上で、コントローラーを操る。ゲームをしている朱美は、幸せそうだった。そんな朱美を見ているだけで、100%充足出来た。そのようにして、一年が過ぎ、2020年がやって来た。
1月2月は何事もなく平穏に過ぎた。ソファの上に、朱美の太ももがあり、その太ももの上に、おれの頭があり、おれの顔の上に、コントローラーを操作する朱美の手があり、朱美の前のモニターには、様々なドラゴンが現れる。それだけの暮らし。
「本当はパーティーを組んで倒すんだけど、わたしは、一人で戦うのが好きなの」
朱美は独り言のように言う。おれには、もちろん意味が分からない。でも、朱美がそれで幸せを感じるのならば、それでいいと思う。
「シュレックの予測的中率が、68%まで落ちて来ている」という緊急の電話が、トレーダーから携帯に入ったのは、3月6日だった。
その時点で、おれはさしたる心配はしていなかった。「シュレック」の予測的中率が落ちているのは、世間で話題になっている、コロナのせいだろうと察しは付いたが、「シュレック」を構成しているパックマンは、情報環境に適応する。今回は、その情報環境が激動したので、適応に若干、時間が掛かっているだけ。そう考え、コロナは他人事でしかなかった。コロナは、人から人へ感染するらしいが、おれも朱美も、一歩も部屋から出ない生活を長く、続けている。感染の不安もない。
そう安堵していることが出来たのも、あの日、4月7日、緊急事態宣言が発出されるまでのことだった。
「シュレック崩壊」
トレーダーから連絡を受けて、すぐに、自分のPCを久しぶりに起動し、10桁の暗唱コードを使って「富士」にアクセスした。10分で原因を特定することが出来た。「シュレック」には、急激な環境変動に対応するための、いわば「のびしろ」が設定されているのだが、「1929年の世界恐慌に匹敵」というキーワードが象徴するマーケットの大混乱が「のびしろ」の閾値⦅いきち⦆を超えてしまい、パックマンがサイバースペースの中で生存することが不可能となり、絶滅に瀕していた。一京匹いたパックマンの内、残存していたのは、25匹。それは、もはやシステムではなかった。ただでさえ、株価がめちゃくちゃな動き方をしている中で、「シュレック」が自爆したことにより、とてつもなく莫大な損失が発生していた。トレーダーには「シュレック」の指示を忠実に遂行しろ、と厳命してある。トレーダーの責任ではない。トレーダーからの警告を無視したのは、おれだ。
すぐに口座をロックした。しかし、口座残高を確認して愕然とした。金は自然に口座に流れ込んで来るから、すべてを自動引き落としにしていた。昨年、税理士から受けた報告によれば、おれの資産は数十億円あるはずだった。しかし、口座にあったのは、48万円と少し。それが、今、現在の、おれの全財産だった。
おれの収入は、100%「シュレック」に依存しており、投資の類は一切していない。口座も一つしか持っていない。信じられなかったし、信じたくなかったが、何度確認しても、その数字が現実だった。
すぐに、弁護士と税理士、トレーダー、青山のレストランとハウスキーパーと「富士」、賃貸しているこの部屋、生活を預けているすべての契約を解約した。おれはどこでも上得意だったから、突然の解約でも、どこも文句を言わなかった。健康保険料は、寄付するつもりで、既に一生分、払い終えているし、年金も税金も滞納したことはない。後ろめたいことはない。ただ、金がなくなったというだけだ。
努めて冷静な声でゲームをしている朱美に声を掛けた。
「ゲームしているところ、ごめん。関係ないけど、そう言えば、朱美って、貯金、いくらくらいあるの?」
朱美は、モニターから目をそらすことなく、はっきりした声で答えた。
「わたし、ないよ。貯金、ゼロ。タケちゃんと結婚した時に、全部、お世話になった施設に寄付しちゃったから。お財布に5万円くらいは入っていると思うけど、わたしの所持金は、それだけ」
「そっか。分かった。ありがとう」
その時点で、おれの頭は空白になった。
とにかく眠りたかった。何も考えずに。現実から逃げるために。
「ちょっと、先に寝るね」
ゲームに夢中になっている朱美に声を掛けて、シャワーも浴びずに寝室へ行き、枕に頭を載せた途端に脳の自衛作用のように眠りに落ちた。
目を覚ました時、自分が誰で、ここがどこなのか、一瞬分からなかった。それくらい、深く熟睡していた。枕元のデジタル時計を見る。朝、8時58分。20時間近く寝ていたことになる。
現実に引き戻される。今、自分が置かれている状況に。隣を見ると、朱美の平和な寝顔があった。なんとしても、朱美の笑顔を守らなければならない。
不思議だった。なぜ、こんなに朱美が好きなのだろうと、自分でも思う。結婚して1年が経つのに、毎朝、出会ったばかりのように新鮮な気持ちで、朱美と向き合う。
「好きになることに理由なんてない」
何かの本で、そんな言葉を読んだ気がする。おれは、朱美以外の女を知らない。でも、それでいい。他の女を知りたいとは思わない。朱美さえ、いてくれればそれでいい。朱美を失うわけにはいかない。
歯を磨いてからシャワーを浴び、ものすごく久しぶりに、スーツを着た。スーツを着たことに目的はない。ただ、気分を正したかった。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して、直接口を付けて飲む。
一年ぶりに、カーテンを全開にする。輝く陽光が差し込む。思わず、手を額にかざし、目をつむって、ソファに座った。認めよう。おれは貧乏になった。ものすごく貧乏に。受け入れ、認識しなければならない事実は、それだけだ。
要は、金だ。金を何とかしなくてはならない。なぜ、あんな垂れ流すような使い方をしてしまったのか、と改めて悔いる。せめて、まとまった額を蓄えておくべきだった。なくなってみて、初めて分かる金のありがたさ。あまりにも容易に金が流れ込んできていたので、金があって当たり前に考えていた。だが、今さら悔いても遅い。
借金という選択肢はない。返すことが出来る当てがまったくない。借りようにも借りる相手もいないし、返済できない借金をするほど、まだ腐ってはいない。とは言え、どうやって、金を作ればいいものか。おれに作ることが出来たのは「シュレック」のみで、ずっと「シュレック」が金を稼いでくれた。他には何の取り柄もない。知識も特殊分野に偏⦅かたよ⦆り過ぎている。おれのプログラミング・スキルは、もはや時代遅れだし、動かない生活を長く続けて来たので体力もまったくない。おれも朱美も物欲がないから、この部屋には売ることが出来るようなものもない。
とりあえず、この家に住み続けるわけには行かない。すぐにでも、出て行かなければ。しかし、どこに?まず、それを考えなくてはならなかった。急いで格安物件を探すしかないだろう。
「おはよう」と言って朱美が起きて来た。もちろん、メイクをしていない素肌だが、結婚して以来、いつも表情は爽やかだ。ゲーム三昧で人生が充実している証拠だろう。望み通りの暮らしを手に入れたのだから。朱美はあまり食べないので、動かなくてもスタイルは崩れていない。
おれは小太りとデブの中間くらいのスタイルまで崩れている。
「カーテン、開けたんだ。たまには、お日様もいいね。どうして、スーツを着ているの?」
「朱美、シャワーを浴びたら、ちょっと聞いて欲しい話がある」
「真剣な話?」
「そうだね、真剣な話だ」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
朱美がバスルームに行くと同時に、スマートフォンで物件の検索を始めた。地方のど田舎まで行けば、1万円で住むことが出来るような空き家もあるが、そんなへき地に行ったら、確実に飢え死にする。何とか都内で、場所を探したい。二人で暮らすことが出来るという条件で、可能な限り、安い方がいい。
あわただしく、スマートフォンで検索しているうちに、朱美が赤いスウェットに着替えてバスルームから出て来た。
「今日は、まだ、朝ごはん、来ていないの?」と、あどけなく訊く。
「朝ごはんは、もう、届かないんだ」
「どうして?」
「それを今から話そうと思って」
おれがそう言うと、朱美は黙って、隣に座った。
「金が、もう、ないんだ」
おれは、朱美の眼を真っすぐに見て言った。
「いろいろと事情があって、貯金箱が、もうすぐ空になる。すまない、約束を破って」
「そっか」
と、朱美は、食事の献立を聞いたように、平然とした顔で答えた。
「だから、この部屋に住み続けることは出来ない」
「この家、無駄に広いもんね」
「すごく狭い部屋に引っ越すことになると思う」
「状況は、だいたい分かったよ」
朱美は、笑っていた。
「すまない」おれは、繰り返した。
「いいよ、タケちゃん。これまで、ずいぶん、いい思いをさせてもらったし。わたしは、ゲームさえ出来れば、他には何もいらない。でも、わたし、何もしないよ」
「構わない。全部、おれが何とかする」
「じゃあ、任せたね」
朱美は、笑顔のまま、そう言うと、ゲームのコントローラーを手に取った。
東京・郊外の駅徒歩30分。シャワーはあるけど、トイレは和式。築60年で6畳一室。月、4万5千円。敷金礼金保証人不要。内覧せずに、即決した。不動産屋に電話を入れると、契約は越して来てからでいい、鍵は開けておくと言われた。
不用品は、すべてマンションのごみ捨て場に置いた。ソファやベッドなどの大物は、残して行く。夜逃げ同然だった。ゲーム機とモニター、端末、最低限の服など、どうしても必要なものだけをまとめてみた。ゴミ置き場から台車を盗んで来る。電車でも、何とか引っ越すことは出来るだろう。とにかく一刻も早く、ここから出て行かなければ、という思いでいっぱいだった。解約する前に引き落とされた家賃を考えれば、まだ少しの間、住むことは出来るのだが、この贅沢な空間に身を置いていること自体が耐えられない。
外に出るのは、昨年のクリスマス・イブに、二人でケーキを買いにデートして以来だった。空の青さに眼が痛くなる。最寄り駅に向けて押して歩く台車の車輪が、ガリガリと耳障りな音を立てる。途中、ATMで現金10万円を引き出した。信号待ちしていた時、朱美が、「何か変だと思っていたけど、どうして、誰も人がいないの?」と、大きな声を上げた。
「朱美は、テレビもネットも見ないもんね」
「ゴーストタウンみたいだね。どうして?」
「無駄な心配をさせないように、あえて何も話さなかったんだけど、世間は、というより世界は今、未曽有⦅みぞう⦆と言っていい危機に見舞われているんだ」
「自粛」という言葉の意味と事情を説明しながら、そう言えば、マスクを持っていなかったな、と、さらに後ろめたい気分になった。文字通りの都落ちだった。
陽の当らない木造アパートの1階も、けば立った畳も、カーテンのないヒビの入った窓も、染みが広がる壁や天井も、狭苦しくしけった室内も、当初は異界に暮らすようで、どこか楽しかった。ただ、朱美が、和式だけはどうしても無理だと言うので、すぐにネット通販で、和式の上にセットして洋式になる便座を買った。一緒に、信じられないほど高額な洗浄可能マスクも買った。痛い出費になってしまったけれど、仕方ない。徒歩15分のコンビニに弁当を買いに行く以外、部屋から出ずに自粛を守った。朱美にコロナを感染させることが怖いので、解除されるまでは、出来るだけ部屋から出ないつもりでいた。ゲームをする朱美は、これまでと何も変わらない。この人は、ゲームさえあれば、どこにいても関係ないんだ。分かっていたことではあるけれども、朱美が、この、しょぼくれた部屋に対して、一言も文句を言わないことに救われていた。朱美はゲームさえあれば、他には何も必要としない。おれは、朱美さえいてくれれば、他には何も必要としない。これまで、いかに無駄なことに金を浪費していたのかを思い知らされた。みじめさを感じたのは、初日のみで、貧乏暮らしも悪くないと思うようになった。むしろ、こういう暮らしこそが、人間らしい生活なのだ。狭い部屋の中で、24時間朱美と二人で、くっついて過ごしていても、ストレスはない。むしろ、幸せだった。しかし、自粛が長引くにつれて、不安が大きくなって来た。
いつ、自粛は解除されるのだろうか?このままでは、日本自体が破綻してしまうのではな
いだろうか?本当に恐慌は来るのだろうか?自粛が解除されたとして、働き口は見付かる
だろうか?老舗が続々と破綻し、名の知れた大企業が大型のリストラを断行しているような状況で、東大卒の肩書だけで何の資格もキャリアも持たない男を雇用してくれる会社があるわけもなかった。
改めて月の出費を計算してみた。家賃が4万5千円。1日2食コンビニで買っても、二人で食費が3万円。冷暖房は、なしでも、ゲームを使いっぱなしなので、光熱水費が1万5千円。朱美はもう端末を使っていないが、おれのスマートフォンはライフラインだから手放すわけにはいかない。通信費とゲームの回線費を合わせてトータルすると、最低月10万円の出費になる。
一人に換算すれば、月5万円。ギリギリのラインだろう。このまま何もしなければ、三カ月で、二人揃ってホームレスだ。とりあえず、切り詰められるのは、食費だ。明日からは、一日二食、おれは、カップラーメンにしよう。そう決心した。
ゲームを中断して、コッペパンを食べていた朱美に訊いた。
「朱美は、もう、昔のお客さんのコネクション、ないよね?」
「だって、わたし、もうスマホ持っていないもん。誰とも連絡の取りようがないよ」
「だよね、ごめん」
「借金の申し込みで?」
朱美がコッペパンを袋に戻してテーブル代わりにしている段ボール箱の上に置いた。
「いや、どこか、就職先を紹介してくれる人はいないかな、と思って」
「タケちゃん、わたしと別れて、一人になりたいと思っている?」
「え、どうして?」
「だって、一人なら身軽だし、どうにでもなるでしょ。わたしを養わなくて済むなら」
「そんなこと、考えたこともないよ」
「どうして?」
と、今度は朱美がおれに訊いた。
「だって、朱美と一緒にいなければ、おれはこの世に存在している意味がない」
朱美は柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、いいこと教えてあげる。わたし、タケちゃんのこと、好きだよ。デブで若ハゲのタケちゃんのことが、すごく好き」
「知らなかった」と、おれは素直に驚いた。
「女ってね、やっぱり、愛されることが幸福なんだよ。こんなに近くで、いつも一緒にいて、タケちゃんがわたしのことを好きなんだな、ってことを、すごく強く感じる。だから、わたしもタケちゃんのことが好きなの」
「ありがとう」一瞬、泣きそうになった。
「でも、わたし、何もしないよ」
「構わない。全部、おれが何とかする」
「がんばれ、タケちゃん」
朱美はそう言うと、おれに優しくキスをした。
思い立って、東大の事務局に電話を入れてみたのだが、面識のある教官は皆、在宅勤務になっていて、個人の連絡先は教えてもらえなかった。朱美がゲームをやっている間、ずっと、スマートフォンで働き口を探していたが、求人はほとんどなく、あったとしても、看護補助や介護補助等、感染の危険が伴う職種だけ。体力がまったくないから、肉体労働は出来ないし、交通量調査、商品のシール貼り、警備員といった日雇いバイトさえ、コロナの影響で口は皆無だった。本当に、ホームレスになってしまうかも知れない。じわじわと実感が深まって来るにつれ、もう、こんな暮らしも楽しいなどとは言えなくなって来た。あの頃に戻りたい。広くて清潔な家で、何不自由なく、寝転がっていることが出来た日々。心底、懐かしいと思う。金が欲しい。
収入を得る手段が見付からない。世間では、自転車で弁当を配達するバイトが流行しているようだったが、おれにはどう考えても無理な話だった。
5月25日に緊急事態宣言が解除されても、先の見通しがまったく立たなかった。状況が好転するにせよ、悪化するにせよ、一時的な仮住まいだと考えていたので、郵便局に転居通知も出していないし、住民票も移していない。10万円の定額給付金ももらえない。「生活保護」という言葉が頭に浮かんだが、連れ合いが毎日、ゲーム三昧なのに、生活保護や公的支援を受けるわけには行かない。朱美を仮病にしてしまえば、何とかなるのかも知れないが、おれは「嘘をつく」ということが、どうしても出来ない性格なのだ。それでも、働かない朱美に対して、まったく腹は立たない。結婚する条件として、朱美は「わたしは何もしない」と宣言し、おれは「それで構わない」と確約した。朱美に対しても、嘘はつけない。朱美は、おれの側にいてくれることが仕事なのだ。他に、何も求めてはいない。
朝、いつも行くコンビニに食パンを買いに行った時、レジの若い男に声を掛けた。
「ちなみになんだけど、ここのコンビニって、バイトを募集していたりしないよね」
上が黒で下の方が茶色になっている長髪は、暗い眼で答えた。
「当たり前だろ。バイトしたいなら、順番待ちだよ。ポスなら紹介してやるけど」
「ポス?ポスって何ですか?」
「ポスティング。ポストにチラシ入れるやつ」
「ああ…… ありがとうございます。少しだけ考えさせて下さい。体力ゼロなので」
その晩、朱美に相談し、他に選択肢がないのなら、と言われた。
「わたしね、銀座にいた時、100万、200万する物を、しょっちゅうもらっていた。でもね、タケちゃんもそうだったけど、お金持ちがお金を使うことなんて、ティッシュで鼻をかむくらい簡単なことなんだよ。そんなことされても、女は喜ばない。男は、惚れた女のために、汗水たらしてナンボでしょ?だから、わたしのために働くタケちゃんが見たい」
朱美の表情は、ここに越して来てからも変わらず穏やかで爽やかだ。
「言っていることはよく分かるし、朱美のためにがんばろうと思う。でも、状況は切迫している」
「わたし、タケちゃんとなら、ホームレスになってもいいよ」
「ホームレスになったら、ゲームが出来なくなる」
「そっか、そだね」
「だから、がんばる」
「がんばれ、タケちゃん」
そう言って、朱美は、また優しくキスしてくれた。
体力がないのに、朱美のために日々、街中を歩き回る武富士。マンション管理人の険しい眼。
喉が渇くが、自販機で飲料を買うことがためらわれる。一枚5円。どう、頑張っても、一日、400枚しか配ることが出来ず、日収は、2000円にしかならない。
一カ月が経ち、武富士の体力に限界が来る。
「朱美、ごめん。もう、脚が動かない」
「うん、ありがとう、タケちゃん。よく、がんばった」
「今日、残金、全部、下ろして来た」
そう言って、テーブル代わりの段ボール箱の上に、1万円札を3枚置く武富士。
「これだけは、最後の砦として残しておかなくてはならないと思うんだ」
「そうだね、わたしも、そう思うよ」
「いろいろ調べたんだ。ネットカフェも営業は再開しているけど、どこも難民で行列が出来ている。その列に並ぶ余裕はない。ファストフード店も、今は、テイクアウトだけだから、夜を越すことは出来ない」
「うん」
「つまり、もう、屋根のある暮らしは出来ない、ということだよ、朱美」
「言ったじゃない。わたしは、タケちゃんとならば、ホームレスになってもいいって」
「でも、もう、ゲームは出来なくなるよ」
「いいの。ありがとう、タケちゃん。もう気が済んだ。もう、一生、ゲームやらなくていい。タケちゃんは、わたしの夢を叶えてくれた。心の底から感謝しているよ。本当にありがとう。ゲームもモニターも端末も、ぜーんぶ、置いて行こう。何も持たずに、一切、何も持たずに、この部屋を出よう」
「これも、もう、ゴミだな」
スマートフォンを畳に置いて、踏みつけ、液晶を割る武富士。
「こうなった時のことは、一応、考えておいたんだ」
手を固く握りしめて、部屋を出る二人。そして、陽の暮れかけた道を歩き始める。駅に向けて、徒歩、20分。公園。あまり広くはない。鉄棒と滑り台と水飲み場とトイレ。裏手が小山。小山の中腹に人気のない、小さなさびれた神社。神社は高床式になっており、床下は雨に濡れない。
床下には、ゴミが散乱し、ダンゴムシやクモがいる。
敷物もなく、床下に並んで横たわる二人。手は固く繋がれたまま。
「約束を果たすことが出来ずに、本当に申し訳ない」
「ううん、タケちゃんは、よくがんばった」
「ねえ、朱美。人間て、どうして生きているんだろうね」
「東大卒なのに、そんなことも知らないの」
真剣に驚く朱美。
「朱美は知っているの?」
「当たり前じゃない。好きな人と一緒にいるためだよ。わたしは、親がいないから、そのことをよく理解しているの。だから、わたしはタケちゃんが隣にいてくれればそれでいいの。もう、ゲームはいらないし」
「おれも、朱美が隣にいてくれれば、他には何もいらない」
「じゃあ、お互い、何も困っていないじゃない」
「そうだね、そう言われてみれば、そうだ。山の裏手に畑があるから、キュウリとトマトは食べ放題だよ」
それから、公園のトイレと水道を使い、畑で野菜を「収穫」し⦅盗み⦆、神社の床下で眠る、という日々が続く。二人は、どんどん薄汚れ、やせ細って行く。そんな暮らしを始めて二週間が経った日の深夜、二人で畑に盗み入るが、突然、センサーライトが発光して、周囲を明るく照らし、畑の所有者の家の玄関から、ショットガンを持った老人が飛び出して来る。
「手を挙げて、立ち上がり、こっちを向け。この泥棒野郎たち」
「会長!?」
朱美が場違いに明るい声を上げる。
「何だ、女か。誰だ、お前。この泥まみれ女」
「長谷川会長、わたしです。『クラブ・シャネル』の朱美です。その節は、大変、お世話になりました」
「アケミ?」
「信じてもらえないですよね。会長には息子さんが二人いらっしゃって、ご長男は会社の後を継ぎ、弟さんの方は、オフ・ブロードウェーで役者の卵をやっていらっしゃるとおっしゃっていました。双子のお孫さんがいて、えーと、えーと、そうか、もう、中学生になられたんですね。
ミワちゃんと、ユリちゃん」
「アケミって、あのアケミか?おれが散々、貢⦅みつ⦆いでやった」
「そうです。その朱美です。その節は、本当に、色々とありがとうございました」
頭を深々と下げる朱美。
「顔だけ、洗わせて頂ければ、分かって頂けると思います」
「いや、信じるけど、信じるけど、絶句ってやつだな。事情は知らんが。隣にいるのは泥棒仲間か」
「申し遅れましたが、主人です」
慌てて、頭を下げる武富士。
「でも、会長こそ、どうしてこんなところに?」
「いや、おれはリタイアして、趣味で土いじりを始めただけだよ。分かった。とにかく、上がって、風呂に入りなさい。腹が減っているのならば、食事も用意する」
身綺麗になり、長谷川会長の家で歓談する三人。事情を知った長谷川会長。自分の所有する馬を預けてある、千葉県の乗馬クラブの住み込みの管理人を募集している、という紹介を受ける。喜んで引き受ける二人。そして、月日は流れ。
昨日で「令和」が終わった。おれは、51歳で、妻は間もなく47歳になる。子どもはいないが、夫婦仲は変わらずいい。もう、何も言葉にしなくても、愛し合っていることが伝わりあう。非常に楽な関係だ。
乗馬クラブで住み込みの管理人をしながら、長谷川会長の紹介で、新進気鋭のAIエンジニアと知り合うことが出来、そのおかげで「シュレック2」を起動させることが出来た。プログラミングのスキルは腐っていたが、骨格となる理論自体は、古くなってはいなかった。
おかげで、こうして、宮古島列島の中の無人島を、丸ごと一つ買い取ることが出来た。何不自由のない生活だが、行きたいと思えば、寝泊りしている大型クルーザーで、どこへでも行くことは出来る。朱美は、毎日、飽きもせずに、海で泳いでいる。おれは、ビーチで読書三昧。幸福な日々だ。死ぬまで困らないだけの、十分な貯金もした。「シュレック2」が、万が一、破綻しても、もう屋根のない暮らしに戻る心配はない。
「人はなぜ生きるのか」と問い、朱美は「好きな人と一緒にいるため」と、かつて答えた。その言葉の意味が、以前にも増して、最近、胸に刺さる。
好きな人と一緒にいるために生きている。他には何もいらない。
珊瑚⦅さんご⦆が固まった岩の上から、泳いでいる朱美に向けて、怒鳴った。
「あけみ― !!」
しばらく見ていたが、聞こえないらしい。もう一度、怒鳴る。
「あけみー!!」
「なにー!!」朱美が海面から顔を上げる。
「あのさー!!」
「なにー!!」
「あいしているよー!!」
「アホー!!」と、笑い声が返って来る。
そう、アホでいい。言葉なんて、いらない。金も数式も何もいらない。欲しかったものは、たった一つで、それは、もう既に手に入れたから。
[ 了]